何もできず・・・

土曜日の夕方、電車も動いたことから、やっと自分の部屋に帰ってきた。心配していたカメラたちは無事だった。棚の上のモノが落ち、ゴルフバッグが倒れ、高いところから落ちた分厚いガラス容器はフローリングに大きな凹みを作っていた。
でも、私は生きている。



徹夜明け、仕事をしていても頭は朦朧としていた。電話は掛け間違うし、口はまわらないし、ミスはするし、散々。パソコンの画面には常に、Ust配信のNHK映像を流していた。ずっと心臓がバクバク言っていたのは、寝不足のせいだけではない。とうとう、画像の上に死亡者の名前が表示されるようになったのだ。私の苗字は、あまりない苗字。私の育った市内では、うちとおばあちゃんちだけだった。きっと、今のお兄ちゃんたちもそうだろう。名前が表示されてしまったら・・・間違いない。確認したいような、しないでいたいような、そんな複雑な気持ちと戦いながら一日、仕事をした。



「行方不明者」 とは、何をもって 「行方不明者」 とするのだろう。
私たち親族にとって、今やお兄ちゃん家族は行方不明者だ。大船渡市内か釜石市内で生きて頑張っているのかもしれないが、無事が分かるまでは。チビたちはお父さんお母さんと一緒にいるだろうか。ひとりで学校や遊び帰りに、津波に遭ってはいないだろうか。その恐怖は想像を絶する。ふたりともしっかりした子だから、防災無線を聞いたらとりあえず走り出すに決まっている。ひとりで恐怖と戦いながら走る姿を想像すると、もう耐えられない。ニュースによると、チビたちがよく行くスーパーの屋上に50名ぐらいが取り残されているらしい。もし、そこで暗く寒い夜を過ごしていたとしたら。
私の思考はもう、完全におかしくなっている。



ニュースで、私が生まれ育った町の、津波前後の写真を並べて被害状況を説明していた。静かな湾を囲むように家々が並ぶ、美しい形の町。それが、殆ど水に浸かっていた。私が大好きだった小学校も、水に浸かっているのか、よく見えなかった。この小学校の校舎、実は昔のチリ地震津波で数百メートル流され、私が通っていた場所に移った、という小学校だった。昔々の話だと思いながら聞いていたが、その歴史を繰り返すことになるなんて。流される前の校舎裏手にある山の斜面には、昔のチリ地震津波の時にここまで水が上がりました、の赤いラインがずーっとずーっと高いところに引かれていた。へぇ、と眺めていたそれが、現実になるなんて。
NHKで度々流れる、釜石市津波が町を襲う映像。この瞬間、釜石市に居たお兄ちゃんは、自分の生徒たちを避難させながら同じこの光景を見ていたのだろうか。どれほど恐ろしかったことだろう。あまりの恐怖となす術のなさに、涙が止まらない。



いま唯一、私がホッとできるのは、無事だったお母さんからのメール。充電がなくならないように、と短い文章で届くのだが、それがとても嬉しいし、救われる。停電で生活は大変、且つ情報が乏しい両親に、できるだけの情報を送る。避難所である公民館で食料をもらうことができるとか、他の町の被害状況とか、ガソリン給油制限とか、ネットで調べた情報をできる限り。
当面、無事を確認できる手段は、携帯電話でのやりとりしかない。東北地方宛の宅配便はいま、受付してもらえない。届くのに時間が掛かりそうだが、郵便なら送ることができるようなので、明日にでも電池式の携帯電話用充電器を送ろう。封筒に入るサイズのもので、お母さんが今、いちばん欲しい物は充電器だというから。



土曜日の午前中、仙台支店にいる同僚から携帯電話に連絡があった。私の田舎の少し北にあるのが彼の田舎。お隣さんみたいなものだから、彼とは田舎の言葉で会話をする。地震の後から殆ど電話が繋がらず、いろんな同僚に連絡を試みた結果、たまたま私の電話が繋がったようだった。
電気・ガス・水道いずれも不通で、小学校の体育館に避難したという。食料は配給されるが無計画に配られるため、もらえる人ともらえない人がいるそうだ。小学校にあがったばかりの子供がいる彼がいちばん困っているのは、水と食料。コンビニやスーパーに行ってもすぐに食べられるものは売っておらず、水がないと何をするにも困るそうだ。 「仕事なんて二の次で、とにかく食料の確保のために動いている」 と言う。何十分も列に並び、手に入れられたのがスナック菓子やポッキーをひとつ、なんてこともあるらしい。こちらから水や食料を送ってあげたいけど、宅配便を送ることができない。何とももどかしい。私のデスクに置いてあるこの水を、送ってあげられたらいいのに。



暖かい部屋で温かいものを食べ、お風呂に入り、布団に入ることができる私。
一方、電気や水、ガスが使えず、寒さに震える家族や友人たち。
あー・・・。