小学校の恩師

田舎に住む10歳下の従妹。数年前に田舎に戻り、今は個人病院で働いている。のんびりとした、可愛らしいコ。この間、赤ちゃんを産んだのは、このコのお姉ちゃん。そういえば、このコが生まれたときのこと、よく覚えているなぁ。私が10歳の時だもんねぇ。
その従妹から数日前、メールが届いた。近況を知らせるそのメールの中に、懐かしい名前があった。
「Lちゃんの小学校の時のO先生が、うちの病院に通っているんだよ。いつもLちゃんのことを話しているよ。Lちゃんは、良い子だったって言ってた。Hくん(私のお兄ちゃん)が児童会長をやっていたことも覚えていたよ。おじちゃんやおばちゃん(私の両親)のことも気にしてたから元気だって言ったらすごく喜んで、さっそく手紙書くって言ってた。先生って、いつまでたっても先生なんだね」



私の通っていた小学校は1学年ひとクラスしかなく、学校の裏は山、道路を渡った向かいは海。兄弟も親も住んでいる家も全員が知っているような、小さな小学校だった。1年生〜2年生、3年生〜4年生まではそれぞれ、ベテランの優しい女性の先生だった。そして5年生になったとき、担任がO先生になった。
初めての男性の先生。しかも、悪いことをするとビンタをする怖い先生と言われていた白髪頭のO先生。みんな、とにかく怖がった。親たちは、 「厳しい先生で良かった」 と喜んだ。 「子の心、親知らず」 だ。



ラグビーが大好きなO先生は、体育の時間もラグビーボールをランニングパスしたり、やたら走りこんだり、キツイ!という授業をした。夏の体育は海での水泳。プールがない学校だったから。女性の先生だと、砂浜で遊んでいても叱られなかったが、O先生は海に入らない生徒には、砂浜でランニングをさせた。厳しい!
そしてやっぱり、悪さをする子供には、容赦なくビンタをした。 「いいか、今はビンタをされて頭にくるだろうけど、後になったら有難いと思うはずだ」 というようなことを言っていたっけ。そんなことを思えるようになるのは、ずっと大人になってからだったよ、先生。今、O先生みたいな先生がいたら、大問題になっているね。あの頃みたいに、ビンタをしてくれて喜ぶ親たちなんて、今はいないだろうなぁ。



O先生は、怖いだけじゃない。面白いこともたくさんやったり、話したりしてくれた。先生の自慢は毎朝、自宅のトイレをピカピカに掃除してくることだった。トイレは、その家の顔だって。いつも自慢していたなぁ。
苦手だったのは、社会の時間の1分間ニュース。これは、子供たちが新聞を見るようになって欲しい、との思いから始めた取り組みらしい。朝、新聞を見て気になった記事をノートにまとめ、1分間で発表するというもの。このために早起きしないといけないので、嫌いだった。
早朝から、ラジオを必ず聴いて来るO先生。確か、永六輔さんの番組じゃなかったかなぁ。そのラジオ番組によくハガキを出していたらしく、採用された人にプレゼントされるグッズを学校に持ってきて、自慢していた。トランプとかだったような気がするなぁ。



O先生が担任だったとき、お兄ちゃんが台風で割れた窓ガラスで目を切って、大怪我をした。お父さんもお母さんも盛岡の医大に入院したお兄ちゃんに掛かり切りになり、私は従妹たちが居るおばあちゃんの家で生活した。おばあちゃんの家は隣の学区にあり、私の小学校からは遠かった。バスで通学することになったのだが、朝にバス停でバスを待っていると、車通勤のO先生が私を拾って乗せてくれた。あの頃は、 「あー、またLちゃん、O先生の車で来てる!」 と同級生に言われるのが嫌だったけど、いま思うと有難かったなぁ。




O先生、もう70歳は越えていらっしゃるだろうけど、従妹の話だといつもキッチリカッチリしていらっしゃるそうだ。昔のまま、変わっていないんだなぁ。
男子の大厄の年にでも、クラス会ができるといいな。その時は、闘魂注入バリにビンタしてもらいたいものだ。O先生、長生きしてくださいね。