「無い」 ということ

昨日のこと。
朝、最寄駅の手前で、携帯電話を忘れたことに気付いた。 「携帯依存症じゃないの!?」 と言われるほど、いつも携帯電話を握っている私。家までは歩いて数分だ。いつもなら取りに戻るところだが、足腰を痛めている今は、最寄駅初の電車で座って移動しないと、通勤は無理。ラッシュの電車で立ったままでは、痛みで腰が持たないのだ。諦めて、そのまま会社へ向かった。
電車の中ではいつも携帯画面とにらめっこ。今日は持っていないので居眠りし、あやうく乗り過ごすところだった。


昼休み。オーダーしたご飯が出てくるまでの時間や、食後のコーヒーを飲む時間、いつもなら携帯電話をいじっているのだが、今日はそれがないので、何をしていいのか分からない。
ランチタイム用の小さなバッグを覗くと、読みかけの本が入っていた。 「あー、これ、最後に読んだのはいつだったかなぁ」 と思いながら、開いてみた。読み終えたハズの前半部分は、全く頭に残っていなかった。苦笑いしながら、最初から読み返すことになったよ。こんなんじゃ、ダメねぇ。


帰りの電車。ここでもいつもは携帯電話をいじっているが、今日は電車内や、外の暗い景色をキョロキョロ。
電車内では、殆どの人が携帯電話をいじっている。何だか異様な光景で、恐ろしささえ感じる。いつもは私も、あのなかのひとりなんだなぁ。窓の外を見ていると、とある駅前のビルが取り壊されていた。あー、こんなことも知らずにいたんだなぁ。


今日は休日だったので、昼過ぎから用足しに出掛けた。
ちょうど家電量販店があったので、毎日使っているウォークマンの修理に立ち寄った。で、見積もりを取るために、機器を預けることになった。通勤でも、買い物でも、どこに行くにも音楽を聴いているので、1週間も預けるなんてどうしよう!と思ったが仕方がない。



もっと書き物に夢中だった若い頃、外で音楽を聴きながら歩く、ということは敢えてしなかった。
街の中にはいろんな音があり、声があり、それらを感じることが出来なくなることが嫌だったからだ。 「こんなに多くの音があるのに、耳を音楽で塞いでしまうなんてもったいない!」 と思っていた。それらは書き物をするための、ネタの宝庫だったから。音や会話を拾っては、感じたことや思いついたことをネタ帳に書いていたなぁ。


それが今は、音楽で耳を塞ぎ、目は携帯電話の画面に釘付け。何だかなぁ。そりゃぁ、自分アンテナも錆びる一方だわ。どんどんつまらない人間になっていくような気がしていたのは、そういうことなのかもしれないね。
そういえば、いつもバッグに入れて繰り返し読んでいた寺山修二詩集と、田辺聖子さんの歌がるた小倉百人一首の文庫本、いつから開いていないだろう。ただバッグの底の方で、ボロボロになっている。


電車の中では、老夫婦のゆったりペースの会話。スーパーの中では、ママと子供のお菓子バトル。アーケード街では、八百屋さんの元気な 「いらっしゃーいっ!」 の声。いろんな声を聞きながら帰ってきた。なんか、いいね。
ウォークマンの修理をお願いした瞬間は 「明日からの音楽のない通勤時間、どうしよう」 なんて思っていたけど、案外それもいいかもね。
これ以上、アンテナが錆びないように気を付けなくちゃ!