同僚の言葉

同じ岩手県沿岸部の出身ということで、よく話をする年上の同僚。彼は大槌町、私は宮古市の出身。大地震の時、彼も私もそれぞれ別の支店勤務だった。
大震災後、先に連絡をくれたのは彼の方だった。 「田舎、どう?家族は連絡取れた?」 と。その時、私はお兄ちゃん家族と全く連絡が取れず、とにかくあたふたしていた。彼も、田舎にいる弟さんやお父さんと連絡が取れない、と言っていた。それから、お互いに得た情報を提供しあい、いろんなサイトで避難所を探し、名簿から家族の名前を検索しまくった。
大震災から三日後、私の家族の無事が分かった。それからも毎日、彼の弟さんとお父さんの安否確認をしていた。その後、彼が弟さんと何とか連絡が取れ、お父さんが津波に流されたらしい、ということが分かった。彼は電話で、思ったより冷静に、その事実を私に告げた。



昔の大津波でも無事だった場所に建つ家に弟さんとふたりでいたお父さん、 「なぁに、こごまで津波はこねぇがら大丈夫」 と、なかなか避難しなかったそうだ。しかし、今回は違った。いざ、家から逃げようとした時にはもう、水に追い掛けられるような状態だったそうだ。弟さんと一緒に逃げたが、80歳を越えた足の悪いお父さんは逃げ切れず、津波にのみ込まれてしまった。
同僚は言っていた。 「じいさん(お父さん)は、逃げ遅れたその判断が自分のせいだったから、自分を心配する弟を先に行くように逃がして、自分は諦めたんだよ。足も悪かったしね。もし、俺がじいさんの立場だったら、同じようにしたと思うし」 と。
そして、釜石市の病院に入院していたお母さんのことも話していた。 「震災後、釜石の病院から盛岡の病院に転院したんだって。昨夜さ、電話で話ができたんだけど 『誰も迎えに来ない』 って言うんだよ。返答ができなくてさ。言葉が出てこないんだよ」 と。それを聞いた私も、言葉が出てこなかった。
大震災から一週間後のことだった。



そして昨日、その同僚と、久し振りに顔を合わせて話をした。私が本社勤務に戻った三日後、彼も急な異動で、お隣の部署に。2年半振りに同じフロアーで仕事をすることになった。ずっと電話でばかり話をしていた同僚は、私が出勤して来たのを見るとすぐに、私の席まで来てくれた。
挨拶のあと、 「お父さんは?」 と聞いた。 「うん、じいさんはまだ、見付かっていないんだ。流されたのは確実だけど、あれほどの被害だし火災も酷かったから、たぶん見付からないと思う」 と彼は言った。 「弟さんは?」 と聞いた。 「避難所をまわってじいさんを探したけど、やっぱりいなかったって。親戚もたくさん、行方不明だしね。遺体安置所にも行ったらしいけど、知り合いがたくさんいるのが辛くて、これ以上、行くのは無理だって言ってた」 と言った。 「そうだね」 としか言えなかった。
彼は、こう続けた。 「あれだけの人の行方が分からないから、もう諦めているんだ。今は、生きている人がどうするかだけを考えてるよ。家が全て流されて本当に何ひとつ残っていないし、それでも弟は生きていかないといけないからね。銀行やいろんな手続きをどうしたらいいか、お金を下ろすにはどうしたらいいか、諸届けをどこにすればいいか、そんなことを調べるのを全部、こっちでやっているんだ。とにかく今は、生きている人をどうするか、だよ。今は田舎に行ってもガソリンがなくて移動が思うようにできないし、がれきの山で自分の家がどこにあったかも 『大体』 でしか分からないし、今までのような 『道路』 というものがないから動きようがないし、とにかくまだ来ない方がいいって弟に言われたよ」 と。



分かってはいるけれど、辛い現実。辛くても、前を向いて歩き出さなければならない、という現実。そんな現実が数十万人分、存在しているという現実。それが、この国で起こっているという現実。
この現実を、日本中の人々がずっと忘れぬよう。。。