立川談笑 月例独演会 其の120回


立川流家元、立川談志が亡くなってから1週間目の今日は、国立演芸場で談笑さんの会だった。
未だに信じられないけれど、この会に行ったらそれも、現実だと納得できるのかな、そんな気分だった。
開演前のロビーでは、家元思い出の品々をバッグから取り出しす人、家元ゆかりのお店に行ってから来たという人、静かに待つ人、いろんな人がいた。
談笑さんの口から何が語られるのか。お囃子が止まってからどん帳が上がるまでの数秒はシーンとし、会場中が変な緊張感でいっぱいだった。ツイッターでは 「客を笑わせる」 と言っていた談笑さんだが、私は笑えるのだろうか。


笑った。出囃子が、ディープパープルの 「スモーク・オン・ザ・ウォーター」 で、ブルーの照明だもんね。そんな落語家、いるかぁ!?いつも通り、笑顔で談笑さん登場。
最初の言葉は 「私は未だ、心を許していませんよ。油断していません」 だった。会場に笑いが起こる。死に目に会っていないし、焼かれたところも見ていないから。何度か、死亡説が流れた談志。今回、いちばん最初に報道されたのは、読売新聞だった、って言ってたかな?談笑さんはフジテレビのスタッフから連絡をもらい、談吉さんに電話をして確認したそうだ。それでも公表は待つように言われ、バタバタしたらしい。
一昨日の、町屋での談吉二つ目昇進披露の会では、談吉さんの 「鼠穴」 が素晴らしかったそうだ。それは・・・書きたいが、談笑さんがツイッターで、その奇跡について 「今は言いません」 とおっしゃっているので、詳しく書くのは止めておこう。



ここから30分、談笑さんは家元の話をした。長い長い、まくらというか家元エピソード。ここに書けることも書けないようなことも。家元が亡くなったと公表された日、談笑さんは静岡で落語会。帰りの新幹線に乗ったところ、同じ静岡で落語会だった談春さんと、たまたま隣の席だったそうだ。昔、談春志らく、談笑と新幹線で名古屋から東京に向かっていた時の話を思い出したそうだ。その話とは・・・うーん、書かないでおこう。小さん師匠と家元の楽屋でのバトル話、モノを無駄にするのが嫌いな家元がやっていたガレージセールの話、家元の好きだった落語噺等などたくさんのエピソード。それらの話に、会場中が笑った。
家元が亡くなったと公表された後、立川流一門が集まった銀座のお店でのこともチラホラ。これからも一門、ひとつになってやって行こうと話したそうだ。上に立つ人選のことも話していたが、これも書かない方がいいかな。後に正式に発表されるだろうっから。
来月21日にお別れの会があるという。これは関係者の集まりで、一般の談志ファンのための会は、それよりも早く、別にやるだろうとのこと。この会のことも色々と検討されているそうなので、発表を待ちたい。


「今日は談志が好きだった噺、談志と関係の深い噺をやりたい」 そう言った談笑さん。

今日の三席。
粗忽長屋』  『反グル対俥』
〜お仲入り〜
『シャブ浜』


まだ前座だった頃、この国立演芸場で談志の 『ちはやふる』 を聴いたそうだ。会場のウケはイマイチだったが、袖で聴いていた弟子たちは、その落語に大爆笑!その時、兄弟子が 「このオッサン、面白いなぁ」 と呟いたことが、未だに忘れられないという。


先月の月例独演会は仕事の都合で来られなかったため、同僚の派遣ちゃんにチケットをあげた。翌日、出勤してきた派遣ちゃんに 「昨日、 『シャブ浜』 やりましたよ」 と言われ、とても悔しかった。
お仲入り後、黒紋付姿で登場した談笑さん。思わず 「うぉー」 と声が出た。以前、確かツイッターで 「談笑さんはどうして、着物を替えないんですか」 と質問があったように、いつもはお仲入り後に着物を替えない談笑さん。先月はどうだったのか分からないが、今日の黒紋付は素敵だったな。引き締まった気持ちが形になって表れたように見えた。
高座に上がると、まくら無しにシャブ浜へ。最初、 「えっ!?もしかして・・・」 と思ったが、ご自分でも 「先月もやったじゃねぇか」 と言い、会場が沸く。談志の芝浜を聴くことは、もう出来ないんだな。



国立演芸場を出た後、そのままザワザワした電車に乗るのが何となく嫌で、そのまま有楽町駅まで歩くことにした。こんな時間に、国立国会図書館最高裁判所前を歩いているヤツなんて、私だけだ。
今日の会を思い出し、この間の長崎旅行を思い出し、好きな歌を口ずさみながら、ニヤニヤとご機嫌上々で歩いた。酔っ払いのオッサン状態だな。
三宅坂からお堀に掛かると、夜のお堀ランナーがいっぱい。さすがに歌を口ずさむことはできなくなったので、お堀沿いの、銀座の柳二世を眺めながら歩いた。
冷たい風が気持ち良い夜。