これが余震とは・・・

休日。
骨折でヒール靴が履けなくなったので、デコ靴を買いに隣駅へ行き、戻ってから病院で足腰の治療をして、家に戻った。夕飯のために炊飯器のスイッチを入れて間もなく、小さな揺れを感じた。 「地震かなぁ」 と思っていたところ、大きな揺れが!
長かった。


テレビのニュースが一斉に、地震を報じた。東北地方は大きな揺れだと伝える。盛岡は震度5弱。実家は大丈夫か、と思っていたところへ、津波警報津波注意報が出た。津波到達時刻まで表示され、キャスターが休みなく注意を促す。
「高台へ逃げてください」 「寒いので厚着をして逃げてください」 「ご近所に声を掛けて一緒に避難してください」 「津波は第2波、第3波と大きくなることがあります」 「避難が長時間になる可能性もあります」 「不要不急の電話はしないでください」


東日本大震災以降、こういった注意はより細かくなった。それだけに、より恐怖を感じる。繰り返されるこれらの言葉、海の映像、津波到達予測の表示、全てがあの日を思い出させる。テレビ画面を見ているだけなのに涙が止まらなくなった。ひとりで怖かったのか、あの震災を思い出したからか、よく分からない。頭の中は何も考えられず、ただ画面を見ているだけなのに。キャスターの止まらない声が、私のそれを止めさせないのだ。


真っ先に、大船渡のチビたちのことが心配になった。この時間、先に家に帰る下のチビがひとりでいるかもしれない。不要不急な電話、と言われるかもしれないが、それでも電話をしてみた。何度もリダイヤルをし、やっと繋がった。
「大丈夫?いま、ひとりなの?」 と聞くと 「ううん、ママちゃんも居るから大丈夫。さっきも余震があったよ。サイレンも鳴ってるよ」 「そっか、ひとりじゃないなら大丈夫ね。良かった。じゃ、切るね」 そう言って、早々と電話を切った。


次は実家。こちらも何度もリダイヤルをし、やっと繋がった。電話に出たのはお母さん。
「おっきな地震で、本当におっかながったぁ!いま、ふたりで上着を着て、リュックに荷物を詰めて、いつでも避難できるように準備してるよ」 とのこと。内陸だから津波は心配ないが、やはりあの日の記憶がそうさせているようだ。チビの無事を伝え、こちらも早々と電話を切った。


お兄ちゃんは大丈夫だろうか。この時間だと、まだ釜石の学校だよね。そう思っているところに、お兄ちゃんの方からメールが届いた。 「地震、大丈夫?こちら大丈夫です」 と。あー、良かった。釜石から家のある大船渡までは、海岸線の国道を車で走らないといけない。津波注意報が出ているから、警報解除まで釜石から出られないという。
「安全になってから帰ったほうがいいね」 と返信すると、もう一度、メールが来た。その中に、 「サイレンで、前回のことがフラッシュバックしている先生もいます」 と書いてあった。


とにかく家族が無事で、ひと安心。田舎の人たちはまた、寒い時期にあの日のことを思い出して怖い夜を過ごしているだろう。
明日の東北はまた一段と、寒い一日になるとの予報。どうか、静かな夜を過ごせますように。