法事で宮古へ

大震災以降、岩手に帰るのは何度目だろう。春、夏、秋、冬と全ての季節に帰省した年なんて、初めてだね。
5日の深夜0時に車で東京を出発。ずっと深大寺のおじちゃんが運転してくれて、私は助手席でおしゃべり相手。起きていたつもりが途中、30分ぐらい居眠りしてしまった。乗り物が苦手なおばちゃんは、後ろの席で寝ていたのに、途中でダウン。2回のSA休憩だけだったから、おじちゃんも大変だったかもしれないなぁ。雨の夜中の運転だもんね。
朝の5時半に無事、内陸の私の実家に到着。お父さんもお母さんももう、起きていた。みんなで簡単な朝ご飯を済ませ、おじちゃんは少しの仮眠を取り、外が明るくなった8時、宮古に向けて出発!先に宮古に着いている品川のおじちゃんも帰りに車に乗るかも、ということで、おじちゃんの車と我が家の車2台で向かった。うちの車の運転手は、私。


雨の中、2時間半かけての山越え。あいにくの雨だが、山の紅葉の素晴らしいこと!クネクネのカーブが続く道を曲がるたび、いろんな色に染まった山々が目の前に現れる。その見事なことといったら、もう!夢の国でドライブをしているようだった。運転手だったから写真は撮れなかったけど、その画はしっかり頭の中に記録されている。
そしてやっと10時半、沿岸の宮古市に着いた。


おばあちゃんは亡くなっているが、私はどうしても 「おばあちゃんち」 と言ってしまう。そのおばあちゃんちには、お嫁さんであるおばちゃんとその子供3人の家族たち、品川のおじちゃんが待っていてくれた。チビッ子4人に犬1匹、猫1匹の大騒ぎ軍団は、もの凄く元気!休む間もなく、法事が行われるお寺さんに向かった。
今回は、お母さんのお父さんと弟の法事。おじいちゃんは23回忌、おじちゃんは13回忌。どちらも、私をとっても可愛がってくれた大好きな人たち。特におじちゃんは、周りのみんなに 「おじちゃんはLを本当に可愛がっていたもんねぇ」 と言われるほど。おじいちゃん、おじちゃん、会いにきたよ。



大震災以降、どうしても撮れなかった宮古の写真。今回はお寺さんと海だけ撮った。私が育ったこの海辺の小さな町は、このお寺さんを残して回りは全て更地になっている。
小さい子供たちを集めた、通称 「お寺幼稚園」 。私も保育園に入る前は通っていて、大好きな長い白ヒゲのご住職によく遊んでもらったっけ。


左下の四角いコンクリート。ここには、ガッチャンポンプがあった。ガッチャンポンプから出てくる水はとても冷たくて、遊んで喉が渇いたときや、お参りの時のお花のお水など、たくさんお世話になったなぁ。
そのコンクリートの先に見える、白い祭壇。その辺にある板を集めて作ったような段に、白い布を掛けただけの祭壇。ここで今回の法事を行った。雨が降っていたので祭壇を囲むようにみんなで立ち、真ん中にお坊さんが立ってお経をあげた。今回のお坊さんは、私の幼なじみ。お寺幼稚園の優しいご住職の孫にあたる。彼は、このおじいちゃんをとても尊敬していて、おじいちゃんのようなお坊さんになりたい、といつも言っている。 「今日は気合を入れて、お願いね」 と言うと 「分かってるって」 だって。頼もしくなったねぇ。



たくさんの家があった場所、今は更地になってしまった方にはやはり、カメラを向けることができなかった。ただじっと、眺めるだけ。唯一、残っているこのお寺さんも、こうやってみると大丈夫そうだが、中は海水が通り抜けてボロボロ。ご本尊前の床板は殆ど流されて地面が丸見え、屋根も崩れかけている。もっと右側に建物が続いてたのだが、その部分は全て流された。残ったのは、この部分だけだ。


お寺を直すには、3億掛かるという。この大震災で被災したお寺は36もあるそうだ。そのお寺それぞれが3億を準備できるかといったら、それは到底、無理だ。檀家さんだって、家が流されているのだから。
幼なじみの彼は、自分が生きているうちに、もっと安全な場所にお寺を移したい、という。何とか頑張って欲しいし、協力できることがあったら手伝わせて欲しいと心から思う。



お寺の敷地の入り口に、大きな大きな木が残っていた。木の左脇にあるコンクリート。ここには、除夜の鐘を突く塔が立っていた。塔も鐘も全て流されてしまい、今は何も残っていない。あの大きな鐘は、どこへ流されたのだろう。ガレキの中には無かったそうだ。引き波に持っていかれたのではないか、とのこと。
どれだけ恐ろしい力を持った波が襲ったのか、私には想像もできない。


木の先に少しだけ見えるのが、私が育った町。グラウンドのように、何もない。車の屋根の奥に見えるのは、穏やかな海。ここから、こんなに海が見えるなんて。今までは家々の屋根がたくさんあったので、海がこんなに近くにあるなんて意識したことがなかった。
頭の中に残っているご近所の家々、路地、通学路、小さい商店。それらの地図は、全く今は役に立たない。どこに何があったかなんて、目印の無い広い更地では、分かるはずもない。
何て切なく、悲しい景色なんだろう。これが、私の故郷。



お寺から、お墓に移動。うちのお墓は高台にあるため無事だったが、墓石にはたくさんのヒビが入っていた。お参りの方法は地方によっていろいろだと思うが、うちちでは墓の段に空の湯のみをふたつ置き、その前には大きな緑の葉を置く。ひとりずつお線香を上げ、お水とお茶を湯飲みに注ぎ、水を吸わせたお米を少しずつ緑の葉に載せ、最後に手を合わせる。私は最後の方だったので、おじいちゃんとおじちゃんにお米をたっぷりあげた。


お墓参りのあと、全員でおばあちゃんちに戻った。先に着替えて手伝おう、と別の部屋に入ると、猫のハルちゃんがいた。久し振りだねぇ、ハルちゃん。春に拾われて来たからハルちゃん。大好きなおじちゃんが亡くなった時は、白黒の幕が家から外されるまで、家に帰って来なかったよね。あのときは、どこに行っていたの?ガリガリに痩せて、戻って来たよね。どこかで、家の様子を窺っていたんだよね、きっと。おじちゃん、ハルちゃんのこと、すごく大事にしてくれていたよね。



法事の後の食事会は、おばあちゃんちで行った。宮古の美味しいお寿司屋さんからお寿司が届き、おばちゃんたちが準備してくれた田舎料理が並ぶ。
お煮しめ、美味しかったぁ。大きい大きいニンジン、やっぱりお煮しめのニンジンは、こうでなくっちゃね。昆布は柔らかく、大根も味が染みて、本当に美味しい。フキの炒め煮も美味しかったなぁ。具材は、フキと白魚とお揚げさん。これだけなのに、何でこんなに美味しいんだろう!このフキは、おばあちゃんちの前の土手で採ったフキだそうだ。細身だけど、それがまた食べやすくて。
あまりに美味しいのでおばちゃんにおねだりし、タッパーに入れてもらって帰った。
そしてその脇には、田舎のおやつ、すっとぎ。従妹が 「Lちゃんが来るから、凍らせておいたのを解凍しておいたよ!」 だって。わーい!わーい!そういえば、従妹には今年、震災から復活した 「すっとぎロール」 を送ってもらったっけ。いつもありがとうね。


食事のあと、お母さんと、妹である深大寺のおばちゃんが、おじいちゃんの思い出話をはじめた。今回の法事に来て良かったなぁ、と思えた、あったかい時間だった。私たちが生まれるずっと前のおじいちゃんは、私たちが知っているおじいちゃんとはちょっと、違っていた。その話はまた、後日。。。
せっかく揃ったんだから、昔の家があった場所に乗せて行くよ、とお母さんたちを誘い、3人を車に乗せて、少しだけドライブをした。お母さんたち家族が子供の頃に住んでいた家は波にのまれながらも、まだ残っていた。昔々の記憶が蘇る60代、70代の大人たち。その思い出話は尽きず、そのまま昔遊んだという海に向かった。



3人は車から降り、岸壁に立ったまま思い出話。ここも昔は全部、砂浜だったそうだ。この3人の思い出話は、全く終わる様子がない。私はひとり、その辺をぶらぶら歩いて待つことにした。


対岸に積まれた、ガレキの山。手前の船と比べると、凄い量だと分かる。別の海で見たガレキの山は、ここの何倍もの高さがあった。東京に運ばれた宮古のガレキは、ほんの一部。こういうガレキの山が、いたるところにある。
まだまだ、まだまだ、本当にまだまだ、なのだ。


これは何?そう思ってしまう姿。
真っ直ぐに繋がり、人も車も走れていた場所が、こんな風にガタガタに崩れたまま。


岸壁の街灯は折れたまま。
いま、私が押しても引いても硬くて動かないこの街灯を、波は簡単に折り曲げてしまったのだ。


太いワイヤーが入った、係留ロープも千切れたまま。
沖へ出る間もなく、船もヨットも流されてしまった。

変わり果てた故郷を悲しむのは、お母さんたちも同じ。思い出話が尽きない3人も、壊れたままの家や、あったはずの建物がなくなっている様子を見ると、言葉を失う。懐かしくて、楽しくて、嬉しくて、悲しくて、切なくて、何とも言えない短いドライブだった。


おばあちゃんちに戻ると、そろそろ帰る、という従妹たち。 「みんなで写真を撮ろうよ!」 だって。私たちを待っていてくれたんだね。ごめんよー!
居間で全員揃って、記念写真。あー、本当に仲の良い親戚で良かったぁ。テレビで、家族のゴタゴタの相談なんかを見ていると、いつも思う。そして今日は、更にそう思った。次にみんなが揃うのは、いつかなぁ。私がそう言うと 「あなたが結婚式をすればいいでしょ!」 とおばちゃんから厳しいひと言!うへぇ、そうですけど。。。墓穴を掘ってしまった。
家族っていいね。そう思った一日だった。おじいちゃんもおじちゃんも一日、笑って見ていたんだろうなぁ。ね?